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弘文天皇 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション, 検索 弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年)- 弘文天皇元年7月23日(672年8月24日))は、第39代天皇(在位671年12月5日 - 672年7月23日)。天智天皇七年二月の条に「伊賀采女宅子娘(やかこのいらつめ)有り、伊賀の皇子を生めり。後の字を大友皇子ともうす。」とある。弘文の諡号は1870年(明治3)に贈られた。これを追諡という。『日本書紀』には38代が天智で39代が天武になっており、弘文は天皇に数えられていない。それまでは天皇としては大友天皇などと呼ばれた。この天皇の即位については江戸時代から論争があり、現在では即位はなかったとする説が有力である。即位をめぐる問題については、別項大友皇子即位説に記す。
[編集] 系譜 天皇系図38〜50代天智天皇の第一皇子(ただし夭逝した兄である建皇子(母は遠智娘)がいるため正確には第二皇子)。母は采女(うねめ)の伊賀宅子娘。
妃:十市皇女(とおちのひめみこ、天武天皇の皇女) 葛野王(かどののおおきみ) 淡海真人・朝臣の祖(→淡海三船) 妃:藤原耳面刀自(みみもとじ、藤原鎌足の娘) ゚壱志姫王(いちしひめのおおきみ) 母不詳 与多王(よたのおおきみ、伝承的人物) 園城寺発願という [編集] 諸説 『日本書紀』には、最初は大海人皇子が皇太子であったが、天智天皇が我が子かわいさのあまりに約束を破って大友皇子を皇太子にしたとある。しかし漢詩集『懐風藻』には、大友皇子は父の生前に正式な皇太子として立てられていたとあり、これを支持する学説もある。
父の天智が668年(天智7)に皇位に即いてから3年目の671年(天智10)に太政大臣となり、その政務を補佐した。『日本書紀』天智十年(671)十一月の条に、「大友皇子は左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣ら五人の高官とともに宮殿の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。大友皇子が香炉を手にして立ち、「六人心を同じくして、天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。続いて5人が順に香炉を取って立ち、臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を報じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びることを、などと泣きながら誓った。」とある。ここでいう「天皇の詔」の内容ははっきりしないが、天智天皇の死後大友皇子を即位させることだと考えられている。
大海人皇子(天武天皇)の反乱(壬申の乱)によりその治世は短く、明治3年(1870年)に弘文天皇の諡号を与えられるまでは歴代天皇として数えられなかった。現在では非即位説が有力である。
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