恋とLove
男女間の愛は、日本語においては恋という特別な言葉でも表現できる。愛とほぼ同じ意味で使われることも多い。しかし、恋は必ずしも人間に対してのみ持つ感情ではない。植物、土地、歴史等を恋しく思う場合にも用いられる。
恋と愛の両方を英語ではLoveと表現する。英語におけるLoveと日本語における恋と愛はイコールではない。これは両言語を用いる各種族の歴史観、宗教観、思想の相違による。
男女間、あるいは同性間の恋については、様々な要因が引き金となって始まると思われる。要因のひとつに、10代における身体の性的な成熟がある。この感情が芽生えるまでの少年少女の時期、彼ら彼女らにとって社会や人間関係は未知の世界であると言われている。この感情が芽生えると、寝ても覚めても相手の事で頭がいっぱいになったり、相手との人間関係を普通とは違う特別なものだと感じるようになったりする。人間以外の動物間にもこの感情が芽生えるかどうかについては不明。 恋が起こるのには人によってそれぞれの「きっかけ」があり、そのきっかけは人の人生においてとても大事なものになる場合がある。
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家族愛
母親から子への愛。これが度を過ぎることをよく「マザコン」「オイディプス・コンプレックス」と呼ばれる場合がある。特に男性の子供に対する母親の度が過ぎる愛や、母親への男性の子供の度が過ぎる愛の事をこう呼ぶことが多い。また、女の子供からの母親への愛情にもマザコンは存在すると思われる。
一方、父親の子供への愛、子供から父親への愛情に度が過ぎた場合も「ファザコン」「エレクトラ・コンプレックス」という言葉が存在する。
兄弟愛、姉妹愛という言葉があるが、これもまた度が過ぎた場合、「シスコン(シスター・コンプレックスの略)」「ブラコン」「カインコンプレックス」と呼ばれる事が多い。
家族愛の普遍的な例として、お互いを溺愛しすぎず、両親の尊敬と思い入れが子供にある(親孝行)あるいは親が子供を愛玩的に愛するのではなく、子の人生を社会的にも精神的にも温かく見守るように育てる事、兄または姉に対して弟あるいは妹が嫉妬、あるいはライバル心を抱きながらも仲間や同志的な感情と似た感情を抱いたり、兄や姉が妹、弟を精神的にも社会的にも微笑ましく見守るような場合等を「家族愛」と表現する場合が多い。
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宗教と愛
「神は愛である」という言葉があり、また、さらに、「愛は神である」という言葉もある。愛を知ることで、神を知ることができたり、宇宙の神秘を知ることになるとも言われる。
これらは、宗教性の意味あいをもった愛であるが、愛は数多くの形に使われる。 「自分の愛している車」これは、「非常に大好きで大事な」の意味で、必ずしも「愛」の言葉を使うのはふさわしくないかもしれない。しかし、使われる。
そこで、たびたび宗教性の意味あいを持った愛を「無条件の愛」と呼ぶ。実際には愛は無条件なのであるが、「無条件ではない大好き」「対象と条件のある愛に似たもの」を「愛」と呼ぶことが多いので、このようになっている。
愛は宗教的な探求テーマの一つであるが、愛を探求テーマに持たない場合もある。それは瞑想の道とも呼ばれ、愛の道と対比され、探求には愛の実践は含まれないか中心的な重要さはもっていない。しかし、道に到達したときには愛が起きる。例えば、禅の探求には愛は含まれない。しかし、悟りを開いた人々は愛に満ちていることは知られている通りである。
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仏教での愛
仏教での「愛」には、サンスクリット語でtRSNaa तृष्णा、kaama काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह の4種が挙げられる。
tRSNaa
人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人がのどが渇いているときには、水を飲まないではいられないような衝動をいう。それにたとえられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しており、そこでこれを「愛」とか「渇愛」と訳し、ときには「恩愛」とも訳す。
広義には煩悩を意味し、教義には貪欲と同じ意味である。
また、この「愛」は十二因縁に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。
kaama
kaamaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現することが多い。
仏教では、性愛については抑制を説いたが、後代の真言密教になると、男女の性的結合を絶待視するタントラ教の影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会を涅槃そのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。
密教が空海によって日本に導入されたときは、この傾向は払拭されたが、平安末期に立川流が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。
性愛を表す愛染という語も、この流れであり、しばしば用いられる。
preman, sneha
preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。
子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもってすべての人々を助けるように働きかけるのが、菩薩の理想である。
一切衆生に対する愛情の純粋化・理想化されたものを慈悲という。それは仏に成就しているが、一般の人々にも多かれ少なかれ実践できる。
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慈悲
愛が更に進化した場合を、慈悲と呼んで区別する場合もある。この場合は愛が状態であり、対象や相手を持たないが、更に愛があふれ出ている。近くに来る人は慈悲を受け取り、愛をいっぱいに受け取ることができるとも言われる。
観音菩薩や聖母マリアは、このような状態の象徴であり、そのような状態を感じることができるように表現されている。
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キリスト教での愛
キリスト教の愛は、隣人愛によって成立する人類という大きな家族像を示唆している。
キリスト教の神は、聖書の「放蕩息子」のように限りなく寛大な親であり、
聖母は全ての人の母として尊敬されるべき慈愛あふれる庇護者であり、
全ての人は「サマリア人」のように兄弟愛で互いに支えあい、互いに譲りあい許しあい和解すべきとされる。